【現役選手】 モデル選手一覧 日本 |
 選手名 (ゲーム登場名) |
 モデル選手名
(本名) |
 選 手 紹 介 |
大倉隆生 |
小倉隆史 |
四日市中央工出身。「四中工三羽烏」の一人(後は中西永輔、中田一三)その後グランパスなどで活躍。通称「レフティー・モンスター」。
彼の脚が無事ならば・・・(つД`) 2002年度までコンサドーレ札幌に所属し、その後オランダに渡ったりしてたが最近ヴァンフォーレ甲府に加入。 |
続木幸隆 |
鈴木隆行 |
急遽召集されたコンフェデレーションズ杯で2得点。それ以来代表に定着。W杯でも得点。2002年、鹿島アントラーズからゲンク(ベルギー)に移籍するも無得点に終わる。 |
藤牧銀次 |
藤吉信次 |
ヴェルディ時代にはスーパーサブ的な活躍を重ね、その独特のキャラで人気者になり、その後京都や仙台に移籍。現在は中国(Cリーグ)2部の「成都足球倶楽部五牛隊」に所属。実は若き日のSMAPが主演した映画版「シュート!」に本人役で出演していた |
木久地尚之 |
菊池直哉 |
清水商高出身。オランダに渡り、フェイエノールトに入団するのかと言われてたが(本人の第一希望だったらしいが)条件面でアウトになり(オランダはEU外選手の最低賃金が決められているとか)現在はジュビロ磐田に入団。 |
仲井秀巳 |
永井秀樹 |
国見高校から国士舘大学を経てヴェルディ川崎へ。その後福岡〜清水〜V川崎〜横浜フリューゲルス〜横浜Fマリノス〜東京V1969と移籍を繰り返す。甘いマスクで人気を集める日本屈指のドリブラーであり、司令塔としても優秀。黄金時代のヴェルディではあまり出番に恵まれず様々なチームを転々とする。横浜Fに移籍後復活し代表復帰も視界に入って来た矢先にチームは消滅。マリノスに吸収合併され永井もマリノスに合流するという非運に見舞われる。古巣東京Vに復帰するも負傷の影響もありチームの凋落を止め切れず2002年を最後に退団。大分トリニータ入りがほぼ確定と言われていたが契約には至らず。現在無所属、復活が待たれる。 |
廣谷 登 |
廣山 望 |
右サイドのスペシャリスト。ジェフ市原で活躍し、その後パラグアイの名門、セロ・ポルテーニョに移籍して活躍。移籍問題でよく揉める人。現在はブラガ(ポルトガル)でプレーしている。 |
舞薗昌樹 |
前園正聖 |
マイアミの奇跡(ブラジルに1-0で勝利)のアトランタ五輪代表チームの中心。鹿児島実業高から横浜フリューゲルス・ヴェルディ川崎などを経てサントスやゴイアス(ブラジル)にも籍を置く。現在は韓国の安養LGに在籍している |
川内義和 |
川口能活 |
清水商高出身。横浜マリノスに入団。正GKだった松永成立が監督と衝突し退団した影響を受け、若くしてマリノスの正GKに。その後はアトランタ五輪代表を経て98フランスW杯の日本代表正GKに。その後イングランド1部リーグのポーツマスへ移籍。移籍直後は活躍するもその後はベンチにも入れぬ受難の日々が続き、2002年W杯では楢崎に正GKを譲っている。 |
【引退選手】 モデル選手一覧 日本 |
臼居行弘 |
碓井博行 |
早稲田大学→日立製作所。80年、82年日本リーグ得点王。75年天皇杯優勝などに貢献。78年アルゼンチンW杯予選メンバー
柏レイソルの初代監督でもある。 |
浦和 九 |
福田正博 |
ミスターレッズ。89年レッズの前身三菱重工に入社し、レッズ一筋の現役生活を送る。93年にはドーハの悲劇を味わい、95年Jリーグ初の日本人得点王になる。その後は度重なる故障に悩まされ二部降格や苦難の再昇格を味わいながら長くレッズを支えた。2002年戦力外通告を受け惜しまれつつ引退 つかこの名前なんとかならんか(;´Д`) |
大木忠則 |
大本忠輝 |
フジタ時代からベルマーレ平塚のJ1昇格への躍進を支えた名脇役
97年27才の若さで引退。引退後は(株)フジタ社員になったらしい |
大隈 悟 |
大倉 智 |
早稲田大学卒業後、日立製作所に入社。その後柏、磐田、仙台を経て、アメリカ・MLS2部のジャクソンビル・サイクロンズでプレー。
選手としての最盛期はJFL時代〜柏レイソルJ1昇格くらいの時期か。引退後はクライフ大学留学を経てセレッソ大阪のフロント入りしている。98年に引退 |
大橋武雄 |
大石隆夫 |
82年清水東高校で日本一。国士舘大学から87年ヤマハ(後の磐田)へ。 実はジュビロ磐田の記念すべきJ1初ゴールを決めたのは彼。その地味な存在感からついたあだ名は「主任」「第3の男」など。ゴンやスキラッチらの影に隠れながらも地道にチームを支え続けた。95-96シーズンを最後に引退。
現在ジュビロ磐田ユースコーチ。 |
沖合 仁 |
落合 弘 |
三菱に所属。78年アルゼンチンW杯予選代表、69年日本リーグ得点王、78年日本リーグMVP。日本代表でも63キャップを数える。10年以上に渡り、息の長い活躍をした名選手。引退後レッズのフロントに就任しルムメニゲと大喧嘩。 |
尾坂加津夫 |
尾崎加壽夫 |
ドイツ、ブンデスリーガのビーレフェルトなどで活躍した往年の名FW。83年三菱重工からドイツに渡り89年まで活躍。当時はロス五輪を捨てて、所属チームにも極秘でテストを受けてしまった尾崎への風当たりが強く大いに批判を受けた。
1979年ワールドユース日本代表主将。この時のメンバーはなかなか豪華なので(水沼、柱谷幸一、風間八宏など)興味があれば調べてみるとよいかも。
その後ザンクト・パウリなどを経て帰国。浦和、V川崎(当時)などでもプレーしたが、諸々の事情によりJリーグの舞台で華々しい活躍をする事なく引退。「東洋の爆撃機」と呼ばれた彼の活躍が後の「スシ・ボンバー」の誕生に影響したのかもしれない |
勝浦義夫 |
松浦敏夫 |
日本鋼管のエースで長身のFW。ヘディングを武器に日本代表でも活躍。日本リーグでは惜しくも優勝はならなかったが87年から二年連続で得点王に輝く。 |
河本鬼茂 |
釜本邦茂 |
日本が産んだ最高のストライカー。残した伝説は数知れず。メキシコ五輪得点王。日本リーグで通算202ゴール。調べれば調べるほど記録と伝説が出て来る人。
「名選手、名監督ならず」の典型例だったり、国会議員とかサッカー協会のお偉いさんとかやってトルシエ解任問題で大暴れしたりと電波飛ばしまくってますが、現役時代はホントに凄かったんです・・・。1984年現役引退。引退試合にはあのペレが来たくらいの人 |
里中義夫 |
佐藤慶明 |
元浦和レッズ。後に京都へ移籍。94年には9ゴールを決めてファルカンジャパンにも招聘された。97年に現役引退後は大産大サッカー部監督などを務める。顔は二枚目。 |
菅田雅浩 |
菅野将晃 |
1960年生まれ、高校卒業後古河電工に所属。Jリーグ開幕後はジェフ市原や京都パープルサンガでFWやMFとしてプレー。
94年に引退後は京都のコーチなどを経て水戸ホーリーホックの監督などを務め、現在大宮アルディージャの監督を務めている。 |
杉下竜次 |
杉山隆一 |
日本サッカー史上最強のウイング。『黄金の左脚』と形容された東京、メキシコ五輪日本代表の主力。清水東高校在学中にフル代表に選ばれた天才。初代日本ユース代表に選ばれ、明治大学を経て三菱に入団し黄金時代を築く。東京五輪アルゼンチン戦で華麗なドリブルから先制ゴールを決め歴史的勝利に貢献。南米のクラブから超高額のオファーを受けるもこれを固辞。 日本リーグで数々のタイトルを獲得。74年天皇杯を制して引退、有終の美を飾る。引退後は三菱フロント入りを固辞し、故郷の清水に帰り創部直後のヤマハ発動機の監督に就任する。弱小チームだったヤマハ発動機の強化に粉骨砕身した。彼が植え付けたスピリットはしっかりと受け継がれ、ヤマハは7年後に1部昇格を果たし翌年天皇杯を制するまでになった。
20数年後、彼が手掛けたチームはJリーグ屈指の強豪チーム「ジュビロ磐田」になった。 |
倉木隆也 |
高木琢也 |
長崎県出身で国見高校卒。アジアの大砲。188cmの長身を生かしたヘディングを武器にマツダ(サンフレッチェの前身)で活躍し代表に選出される。92年アジアカップ決勝戦でゴールを決め日本の優勝に貢献。余談だがとんねるずの木梨憲武との番組中のPK合戦で敗れ坊主頭になるという約束をホントに実行したナイスガイ。サンフレッチェ広島でも活躍しステージ優勝にも貢献。その後ヴェルディを経てコンサドーレで2000年に現役を引退 |
蔵原楽志 |
桑原楽之 |
日本リーグの東洋工業に所属。1965年のから第一回JSLから4連覇に貢献。メキシコ五輪代表メンバーで銅メダル獲得に貢献。下の名前は「やすゆき」と読む。 |
竹葉広伸 |
武田修宏 |
ヴェルディ黄金時代を支えた名FWでカズのパートナーとして活躍。Jリーグ通算94ゴールをマーク。その絶妙なポジショニングでワンタッチゴールを量産。ドーハ戦士の一人でもある。96年にジュビロ磐田に移籍。サイドバックへのコンバートも味わう。その後はヴェルディ復帰→京都→市原→パラグアイのスポルティボ・ルケーニョ→ヴェルディ復帰と流浪のストライカーとなる。2001年現役引退。 |
長井良幸 |
永井良和 |
高校時代、浦和南高校を高校三冠に導く大活躍。その活躍で人気マンガ「赤き血のイレブン」の主人公のモデルにもなった人気選手で「浦和=赤」のイメージを植え付けた人と言える。
その後は古河電工(現ジェフ市原)へ進み、日本代表のエースとしても活躍した。 引退後はジェフ市原初代監督を経て、アルビレックス新潟、横浜FCなどの監督を務めた。柏レイソルに所属する永井俊太選手の実父でもある |
仲島 昭雄 |
永島 昭浩 |
清水や神戸で活躍。元日本代表。詳細はそのうち書く予定 |
林谷章一 |
柱谷幸一 |
国士舘大から日産自動車へ入団。初年度に新人王獲得、天皇杯優勝と華々しいデビューを飾る。その後日産黄金時代に大きく貢献しJリーグ開幕と同時に浦和レッズへ移籍。94年からは柏レイソルに移籍しJ1昇格に多大な貢献を果たす。1996年に非常に惜しまれつつ現役を退き、2001年よりモンテディオ山形の監督に就任。チームの躍進に貢献した。
日本代表では86年メキシコW杯予選などに出場。Aマッチ出場29試合で3得点だが、当時はAマッチ自体が少ない時代だった為、代表として出場した試合数は80に上る
柱谷哲二(ゲーム中では林谷勝二)の実兄。
しかし2003年7月、NHK山形の爆乳女子アナと不倫が発覚。今後の動向に注目が集まる。 |
原田博通 |
原 博実 |
早稲田大学卒業後三菱重工へ入団。三菱のリーグ優勝、JSLカップ優勝に貢献、通算56ゴールをあげ「アジアの核弾頭」と呼ばれた名FW。 日本代表でも総計では歴代2位の72ゴールをあげエースとして君臨。松浦敏夫と共に日本の誇るツインタワーだった。
92年5月、Jリーグ開幕を前に引退。その後は浦和レッズのコーチや監督を歴任し、現在はFC東京の監督を務める傍らサッカー解説者としても活躍中。スカパーやCATVではおなじみの人。その独特の「居酒屋トーク」は必見の価値あり |
増永 彬 |
松永 章 |
藤枝東高校で史上初の高校三冠を達成した時の主将を務め、早稲田大卒業後、日立製作所に入団。リーグ優勝にも貢献し自身も得点王に2度輝いている。天皇杯も2度優勝。
一試合最多得点(6点)の日本記録を保持、ハットトリック7回、7試合連続得点も残している。83年に引退。 |
瑞島武士 |
水島武蔵 |
東京都生まれ。1974年、10才の時ペレの紹介でブラジルに渡り、84年(20才の時)に名門サンパウロFCと契約。サンベント、ポルトゲーザなどを経て89年からは日立製作所(のちの柏レイソル)、横浜フリューゲルスなどでプレーしたが、怪我などに泣かされ思うようなプレーは出来なかった。
彼の時代は「ブラジル国籍が無いとプロ契約は出来ない」という規則があった為、彼はブラジルに帰化しプロ選手となったが、それは同時に「日本をW杯へ・・・」と言うもう一つの夢を捨てる事を意味していた。
その後日本で彼をモチーフにした漫画が大流行した。それが「キャプテン翼」である。彼が若くしてブラジルに渡った8年後、彼と同じ道を辿ったのがカズであった。
92年引退。 |
矢沖田 翔 |
羽中田 昌 |
本名は「はちゅうだ・まさし」と読む。山梨県の韮崎高校時代に伝説的な活躍をしたストライカー(つまり中田英寿の先輩)2年連続選手権準優勝などに貢献しユース日本代表にも選ばれ未来の日本代表のエースと期待されていた。しかし19才の時にバイク事故に遭遇し下半身不随の重傷を負い、サッカー選手としての未来を奪われ、それ以来車椅子の生活に。現在はサッカー解説者やエッセイストなどとして幅広く活躍。スカパー見てる人にはおなじみの人。 |
世市川厳太 |
長谷川健太 |
清水東三羽ガラスの一人として全国高校選手権優勝。筑波大を経て日産自動車入り。91年に清水エスパルスに移籍。以後はエスパルスの中心選手として活躍。日本代表としても94アメリカW杯予選などに出場。「重戦車」と呼ばれたドリブルを武器に活躍した右サイドのスペシャリスト。99年に現役引退。
現在はNHKのサッカー解説者として活躍している。 |
露蓮マグナー |
呂比須ワグナー |
ブラジル生まれで1987年に来日。ブラジル名はワグネル・アウグスト・ロペス。サンパウロFCから日産自動車(マリノスの前身)に入団。その後、柏、本田技研、平塚、名古屋、FC東京を経て福岡へ。 3度のJFL得点王に輝き、JFL、JSL、Jリーグの通算得点記録では釜本を抜き歴代1位。
97年に日本に帰化しフランスW杯では1アシストを記録。99年惨敗に終わったコパ・アメリカでは2得点と孤軍奮闘したがその後残念ながら代表からは遠ざかってしまう。アビスパ福岡で2002年に引退 |
猪貝洋通 |
礒貝洋光 |
帝京高校からガンバ大阪へ入団。後に浦和レッズでもプレー。当時ラモスより将来の日本を背負っていく存在と言わしめた天才司令塔。
20歳の頃にはスペイン留学も経験するが、バルサの練習参加は代理人と揉め、達成できず。エスパニョールから受け入れの返事を貰うと入れ替えに日本へ帰国。ガンバ大阪で活躍するもケガが多い為、代表でも2試合しか招集されず。
その後浦和へ移籍するが、パッとせずサテライトでの生活が続き、そのまま引退。引退後プロゴルファーを目指し渡米。
(J通算)135試合/29得点 (代表)2試合/0得点 |
サムソン吉田 |
ネルソン吉村 |
ブラジル生まれの日系三世。67年日本第一号の外国籍選手として19才で来日。当時、プロ選手は認められていなかった為、彼は「転勤して来た旋盤工」という扱いで日本にやって来た。弱小チームだったヤンマーに加入後、ネルソンはそのサッカーのレベルの低さに愕然とする。ネルソンが得意としたのは抜群のキープ力と正確なパス。だがそのパスを得点に結び付けるFWが居ないのではチームは強くならない・・・しかし彼の心配は杞憂に終わる。彼より2ヶ月早く入団した若者の中にとてつもない怪物が居たのだ。その男は誰よりもネルソンを信頼し、ネルソンのテクニックを盗み、ネルソンの柔らかいトラップからヒントを得たという胸トラップからの弾丸シュートで後に「世界のカマモト」として注目を集める事になる。
ヤンマーはその後、ネルソンの成功に続けとカルロス・エステベスやジョージ小林らを加入させ黄金時代を築いた。ネルソンは70年に「吉村大志郎」と言う名で日本に帰化し、今では当たり前の事となった「スポーツ選手の帰化」への先鞭をつけた。その後W杯や五輪予選にも出場したが、メキシコ五輪で銅メダルに輝いた日本代表はその後世代交代に失敗し急速に下降線を辿ってしまう。引退後はサッカー教室などを積極的に開き、日本サッカー発展に尽力。現在はセレッソ大阪のフロント入りしているらしい。
彼が付けた道筋をラモスや呂比須が歩き、今三都主がその道を通りまだ見ぬ世界へと踏み出そうとしている。 |
水本輝司 |
宮本輝紀 |
広島市出身。59年、八幡製鉄(現新日鉄八幡)に入社。東京、メキシコ両五輪でサッカーの日本代表として活躍。メキシコ五輪では銅メダルを獲得。67年には日本リーグMVP、70年にはアシスト王を獲得。76年から4年間、新日鉄八幡サッカー部監督を務めた後、九州共立大サッカー部監督へ。華麗なテクニックを武器に代表でも20ゴールを決め活躍した名MF。
御本人は残念ながら2002年に他界されてます。 |
与那嶺ジョー |
与那城ジョージ |
「ミスター読売」。ブラジル、サンパウロ出身。72年、21才で来日し読売クラブへ入団。当時2部リーグだった読売クラブを1部へ引き上げる原動力となり、後の「読売クラブのブラジル化」への先駆けとなった。日本リーグや天皇杯など数々のタイトルを獲得、個人レベルでもベストイレブンやアシスト王に輝く。
84年に日本帰化を果たしメキシコW杯予選メンバーに名を連ね、伝説の「10.26国立」にも途中出場したが、惜しむらくはその時既に選手としてのピークは過ぎていた。全盛期に帰化を果たせて居れば結果は違ったのかもしれない。
85年に現役引退後は読売クラブの監督や名古屋、京都のコーチなどを歴任。93年には名古屋の、94&96シーズンには京都の代行監督も一時期務め、ラモスの京都移籍にも一役買っていた。現在は東京ヴェルディ1969のユース監督を務めている |
ラゴス武威 |
ラモス瑠偉 |
77年、20才でブラジルから来日し読売クラブへ加入。試合中に対戦相手を追い掛け回したり暴言吐いて乱闘したりで長期の出場停止を課されるなど気性の荒さが目立った。日本人女性と結婚し、読売の中心選手として活躍するにつれ気性の荒さはファイティングスピリッツとして発揮されるようになる。89年に日本に帰化。翌年のアジア大会で本格的代表デビューを果たす。92年アジアカップ優勝の原動力となりJリーグ開幕の波に乗り94年アメリカW杯予選でも活躍。予選最終戦あと1分で本大会出場が決まるロスタイムのラストプレーで同点に追いつかれ予選敗退。(ドーハの悲劇)座り込んで動けないラモスの姿があまりにも印象的だった
その後京都移籍を経てヴェルディ復帰。98年に現役引退。 |
榎木和己 |
大榎克己 |
高校時代は堀池、長谷川健太と共に「(清水東)三羽ガラス」と呼ばれる。早稲田大を経てヤマハに所属していたがJリーグ開幕に合わせて設立された清水エスパルスに入団。実はエスパルスのプロ契約第1号選手だったり。若い頃はゲームメーカーだったが年を追う毎にポジションが下がり最終的にはリベロに。清水エスパルス一筋に現役を貫き、三羽ガラスの中では最も長く現役を続け、2002年に引退。現在は清水エスパルスのコーチとして活躍中 |
沖 秀達 |
小城得達 |
(おぎ・ありたつ)東洋工業(その後マツダ→サンフレッチェ)に所属。第1回日本サッカーリーグの発足以来4連覇、最強チームの中心選手だった。キレたら誰も止められないような人だったらしい
65年、70年日本リーグMVP、66年日本リーグ得点王。若い頃はFWだったがその後中盤やフルバックも経験。攻守に渡りオールラウンドな活躍を披露した。東京、メキシコ五輪代表メンバー。
引退後はマツダサッカー部監督などを歴任。サッカーの地域浸透に尽力されている。
ゲーム内では前作までFWだったが今回はDMFで登場している |
北山 剛 |
北沢 豪 |
ヴェルディ黄金時代を支えた名MFであだ名は「キーチャン」。圧倒的な運動量で守備をしないラモスの分もカバー。代表ではドーハの悲劇も経験。その後も長くヴェルディを支えたが2002年現役引退。 |
窪山隆三 |
窪田龍二 |
76年生まれで神戸出身。神戸弘陵高校卒業後、横浜マリノスに入団。主にボランチに入り、強烈なミドルシュートなどを武器に活躍(背番号は20)95-97まで横浜マリノスに在籍、98年に地元ヴィッセルに移籍し活躍したが、その年に解雇され引退。その後横浜FCに参加するという噂があったが結局実現ならず、現在の消息は不明。 |
沢田 重 |
澤入重雄 |
法政大学からトヨタ自動車に所属。90年日本代表に召集。その後93-95まで名古屋グランパスに所属。記念すべきJリーグ開幕スタメンで初代主将。当初はFWだったが後にMFやDFも経験。95年に現役引退。 |
田崎昭芳 |
田坂和昭 |
広島県出身。スキンヘッドがトレードマークの名選手。決してセリエAで審判やってたりタコ焼きのCMに出たりはしていない。本人曰く「スキンヘッドの原因は原爆の後遺症」。ベルマーレ平塚で台頭し、代表にも選ばれる。その後清水エスパルスやセレッソ大阪に移籍し活躍。2002年引退。 |
藤山信人 |
藤島信雄 |
日本リーグでは日本鋼管に所属。下位に低迷し続けた日本鋼管で孤軍奮闘の活躍を見せて代表に名を連ねた。彼の後、日本鋼管に松浦、藤代、浅岡が台頭して来た事を考えると生まれた時期が少し悪かったか。74年西ドイツ、78年アルゼンチンW杯予選日本代表。代表キャップは64。 |
井畠正輝 |
井原正巳 |
冷静な読みとカバーリングで「アジアの壁」と呼ばれ、
日本サッカー史に残る名選手。横浜マリノス、ジュビロ磐田、浦和レッズで活躍。 93-97年まで連続してJリーグベストイレブンに、97年にはアジア最優秀選手にも選出される。93-98まで6年連続オールスター選出。日本代表でも主将も務めフランスW杯に出場。2002年現役引退 |
奥村辰彦 |
奥寺康彦 |
秋田県生まれ。高校卒業後古河電工へ入団。一年目から頭角を現しフル代表にも途中出場でデビュー。この時奥寺と交代したのが杉山隆一だったのはある意味運命的。76年にブラジルへ短期留学。翌年の天皇杯で優勝、その勢いで古河電工に初のリーグ優勝をもたらす。78年アルゼンチンW杯予選で惨敗を喫した代表チームと共に長期欧州遠征に帯同。そこでドイツの1FCケルン監督バイスバイラーの目に止まり熱烈な誘いを受ける。熟慮の末周囲の後押しもあり、日本人初のプロ選手として奥寺はドイツに渡った。
加入初年度にリーグ優勝とカップ戦の2冠に貢献し、最高のスタートを切った奥寺の影で、若き日の「猛牛」デンマーク代表のエルケーア・ラルセンは外人枠から弾き出され国外に去って行った。翌年、ケルンにリトバルスキーが加入。チャンピオンズカップでベスト4に進出。この準決勝で敗れたものの貴重なゴールを上げた奥寺の評価は不動のものとなった。 しかし翌年バイスバイラーはケルンを去り、新監督リヌス・ミケルス(後に88年欧州選手権でオランダ代表を優勝に導く事になる名監督)の構想から外れ当時2部のヘルタ・ベルリンに移籍。半年後にはブレーメンからの誘いを受け1部に復帰する。チーム事情などもあり、奥寺は次第に左ウイングから左MFや左SBでの起用が増えて行った。チームメイトのルディ・フェラー(2002年W杯ドイツ代表監督)らと共にリーグ上位の常連となった。この頃から『東洋のコンピューター』と言われるようになり、ドイツ国内でその地位を確立した。
85-86シーズンを最後に日本に帰国。プロ選手だった奥寺が帰国した事により、日本でもついに選手のプロ化が認められるようになり、この時奥寺と共に日本国産プロ選手第一号となったのが木村和司だった。そして日本代表にも9年ぶりに復帰しソウル五輪予選では悲願の五輪出場まであと引分け1つまで迫ったが最終戦で中国に敗れ奥寺は代表引退を決意。翌年には現役引退も発表した。引退試合の相手は王様マラドーナ擁するナポリだった。引退後は市原のGMや監督を経て横浜FCのフロントに入って現在に至る。
彼の残した功績と得た名声に中田英寿はまだ遠く及ばないかもしれない。 |
釜名光雄 |
鎌田光夫 |
中央大学出身、古河電工所属。メキシコW杯予選日本代表。メキシコ五輪、東京五輪でも日本代表で活躍した名ストッパー。堅実なプレイで最終ラインに安定感をもたらした。
引退後76-77年には監督として日本リーグで優勝を味わう。この時の古河電工には奥寺康彦、清雲栄純、桑原隆、永井良和を擁していた。この年は天皇杯も制し2冠に輝いた。 |
須並 哲 |
都並敏史 |
『炎の左サイドバック』。東京都出身。読売クラブに加入し左サイドバックとして一時代を築いた。ヴェルディ黄金時代の不動のメンバーで、その後アビスパやベルマーレ平塚などでプレイ。日本代表では82年スペインW杯予選から10年以上活躍。特に94年アメリカW杯最終予選では、予選前に足を骨折し、試合に出場できる状態では無かったが、他チームへの牽制の意味もありメンバー入り。試合前日に痛み止めを打ち練習に参加しただけで「都並出場か!?」と対戦チームが大いに慌てたというエピソードもある。「炎の左サイドバック、都並」という名前はアジアにも轟いていたのである。結局一試合もプレーすることは叶わず、あの「ドーハの悲劇」のゴールは皮肉にも、彼が居なくなった左サイドから上げられたクロスから生み出された。
本人曰く、引退の理由は「パスに追いつけず中田英寿に怒られた」という事らしい。引退後ヴェルディユース監督などを歴任したが、現在は退任。指導者留学をしているらしい。 |
鷹山 陽 |
片山 洋 |
日本リーグ三菱(浦和レッズの前身)の主将を務め、メキシコ五輪メンバーにも名を連ねた名DF。当時はフルバックと呼ばれていたポジションから積極的にゲームメイクに絡んだ。アマチュアではあったが人一倍厳しいプロ意識を持ち、三菱を日本リーグ屈指の強豪に引き上げた原動力となった。引退後は会社経営をなさってる模様。 |
林谷勝二 |
柱谷哲二 |
柱谷幸一の実弟。国士舘大〜日産自動車と兄と同じ道を歩む。92年読売に移籍しJリーグ開幕を迎える。「闘将」の異名を取り強烈なリーダーシップでチームを牽引。ヴィルディ黄金時代を築く。日本代表も90年イタリアW杯予選から召集されレギュラーとして活躍、94年アメリカW杯最終予選、ドーハの悲劇を経験。現役引退後はコンサドーレ札幌の監督に就くが散々な成績に終わりシーズン途中に解任の憂き目に会う。監督としては賢兄愚弟のようだ。現在は浦和レッズのサテライトコーチを務めている |
松本太郎 |
松木安太郎 |
読売クラブユースからの生え抜きで、生涯読売クラブに在籍し続けた名選手。日体大を中退後、正式に読売クラブ入り。通算208試合出場/7得点/9アシスト。日本リーグ優勝3回、天皇杯優勝3回。主将も務めた。
代表ではロス五輪予選、メキシコW杯予選、ソウル五輪予選などで活躍。
引退後は読売ヴェルディの監督などを歴任。Jリーグ王者に導いた。現在は名物解説者などとして活躍し、その独特のキャラで多くの人に親しまれている |
盛岡 匠 |
堀池 巧 |
清水東高出身。長谷川健太、大榎らと「三羽ガラス」と呼ばれた。その後順天堂大から読売を経てJリーグ開幕を前に清水エスパルスに加入。98年から一時期C大阪にレンタル移籍。その後清水に復帰して99年、長谷川と共に引退。引退時は平塚から獲得のオファーもあったがそれを固辞。
日本代表でも94年アメリカW杯予選などで活躍。不動の右サイドバックとしてチームを支えた。現在はサッカー解説者などを務めており、「や●っちFC」などでおなじみ。 |
山内芳義 |
山口芳忠 |
藤枝東高校で選手権優勝。中央大学卒業後日立製作所に入団。天皇杯で2度優勝、日本リーグでも1度優勝している。70年メキシコ、74年西ドイツ(当時)W杯代表メンバー。東京、メキシコの両五輪代表にも選ばれている名選手。
引退後はバルセロナ五輪の代表監督などを務めた。この時のメンバーには澤登、下川、名良橋、小村、名波、藤田、相馬、藤吉などが名を連ねていが、サッカー協会内部のゴタゴタに巻き込まれアジア予選で惨敗を喫してしまった。 |
松田茂克 |
松永成立 |
静岡県出身。愛知学院大学から85年日産自動車に入団。日産の、マリノスの守護神として長く君臨。押しも押されぬ日本NO`1GKであった。
しかし95年シーズン途中にアルゼンチン人のソラリ監督と激しく衝突し退団。しかし年齢的な問題(この時まだ32才くらいだったのだが)や監督との衝突で退団というマイナスイメージもあり、なんとJ1他チームからの誘いがゼロ。結局鳥栖フューチャーズ(後のサガン鳥栖)に電撃移籍。皮肉にも、彼が在籍中松永の足元にも及ばなかった控えGKの若者がチャンスを掴み、リーグ優勝・新人王を獲得。これを機に松永は日本代表の正GKの座すらも、この川口能活という若者に奪われる事になる。
その後は京都パープルサンガを経て97年にブランメル仙台(現ベガルタ仙台)、後に京都パープルサンガへ復帰。
日本代表でも長くゴールマウスを任されたまさしく日本の守護神。94年アメリカW杯アジア最終予選、ドーハの悲劇と呼ばれたあの絶望的なゴールの瞬間を、誰よりも近くから見ていた男。
余談だが'92アジアカップVS中国戦で相手選手の頭を思いきり蹴り上げ一発退場(笑)という事やサンガ時代、ゴールキックをそのままゴールさせた事など、エピソードに事欠かない名選手。2000年現役引退。 |
森田敦夫 |
森 敦彦 |
横浜フリューゲルスのレゲエGK。滝川第二高校から全日空へ。その後Jリーグ元年に最年少で正GKになり、その独特な風貌と派手なセービング(反面ポカも多い)、目立ちたがり屋の性格もあり一躍人気者となりオールスターにも出場。全盛期は笑っていいとものテレフォンショッキングにも登場。次回ゲストのこちらも当時絶頂だった光GENJIの山本淳一との電話で思いきり「友達のフリしてごめんねー。キャハ」と言い放ちお茶の間を絶句させた逸話も持つ。さらに有名モデルと結婚しまさに向かう所敵無し。
95年に期待の新人としてアゴの長い若造が加入。徐々に出番が減って来ていた時に審判への暴行事件を起こし3ヶ月の出場停止。それが致命的となり、このアゴの若造(後の1億円GK、楢崎正剛)にポジションを奪われる。
97年コンサドーレに移籍するもディドの控えで終わり活躍できず。この頃にはもう見た目もキャラも丸くなり普通のサッカー選手になってしまっていた。その後引退。現在はバーを経営しているらしい。 |
横村賢治 |
横山謙三 |
伝説の名監督、デットマール・クラマーに大学時代に見い出され、東京、メキシコ五輪代表チームの不動の守護神。東京五輪後、交通事故で再起不能かとまで言われたが不屈の闘志で復活。メキシコ五輪3位決定戦では奇跡的なPKセーブなどで大活躍。銅メダル獲得に大きく貢献した。
所属した三菱でも不動の守護神として活躍、その黄金時代の中核を支え、宿敵だったヤンマーが擁する日本最強のストライカー釜本邦茂の弾丸シュートを10年以上に渡り黙々と受け止め続けた。
引退後は87年日本代表監督に就任。当時欧州で流行していた3-5-2システムを導入。FWを次々とウイングバックにコンバートしたがさっぱり機能せず。それでも頑なに3-5-2を押し進めた結果イタリアW杯予選で惨敗。ダイナスティカップでは全敗、アジア大会ではベスト8敗退。こんな成績でもなぜかクビにならずにいたが、91年の日韓定期戦で韓国に左ウイングバック福田正博(ぉぃ)の裏のスペースをことごとく突かれ敗退、遂に更迭。この年を最後に日韓定期戦は廃止となった。
と、戦績だけを見ると迷監督だが、彼が代表に呼び寄せ定着させた選手は、カズ、ゴン、黒崎、ラモス、北澤、柱谷、井原、堀池、松永・・・とその後の日本サッカーを背負うことになる名選手ばかりだった。選手を見る目は一流だったが、その選手を生かす戦術を持っていなかっただけなのかもしれない
その後浦和レッズの監督やGM(ゼネラル・マネージャー)などを務めたがレッズ2部降格などを経て退任。 |